悲劇のコンビ、フォークダンスDE成子坂 運命を狂わせた「ボキャ天」
6/18(木)
2019年11月、元フォークダンスDE成子坂・桶田敬太郎(享年48)が、がんを患って亡くなった。その相方だった村田渚(享年35)は、2006年にくも膜下出血で急逝。コンビともに若くしてあの世へと旅立った。デビュー後間もなく賞レースで結果を出し、業界内外から才能を高く評価されていた。しかし、なぜか彼らはブレークできなかった。そして、まさかの解散……。刹那(せつな)的に生きた伝説のコント師・フォークダンスDE成子坂。その軌跡をたどる。
中略
1992年からスタートした『ボキャブラ天国』シリーズ(フジテレビ系・1999年9月終了)は、もともと視聴者から募った替え歌の面白さを競うバラエティー番組だった。いわば『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系)で恒例のコーナー「空耳アワー」のダジャレ版のようなものだ。
しかし、1994年に『タモリのSUPERボキャブラ天国』とタイトルが変わると、無名の若手芸人がダジャレの面白さを競うコーナー「ヒットパレード」のほうに注目が集まった。短いコントや漫才のなかで、普通ならこう言うであろうフレーズをテレビ画面のテロップに出し、ダジャレを言うタイミングで書き換わるという手法が斬新だった。
ヒットパレードでは芸人のVTRを流すだけだったが、番組タイトルが『超ボキャブラ天国』に変わると、芸人がスタジオに登場するようになる。これによって若手芸人の人気が爆発し、いわゆる“ボキャ天ブーム”が巻き起こる。そのなか、出演者の1組であるフォークダンスDE成子坂の立ち位置は少し特殊なものがあった。
若手芸人や業界人のあいだでは、すでに名実ともに知られた存在。とはいえ、番組内では無名芸人の一員として「本ネタでない部分」で競い合わなければならない。この“ねじれ”は、見ていて違和感があった。
フタを開ければ、ネプチューンやBOOMER、X-GUNなど、若手芸人らしい振る舞いをするコンビに人気が集まっていた。また、ビジュアルやパフォーマンスにインパクトのある芸人が注目を浴び、ネタとは別のところで評価されるのが常だった。
番組スタッフのような格好をしていたフォークダンスDE成子坂は、番組MCやパネリスト(審査側の著名人)から「地味!」といったイジりを受ける存在になっていく。これに村田は「(地味ではなく)シック!」と応戦していたが、ネタへのこだわりが強かった桶田はどんな胸中だったのだろう。リアルタイムで見ていた者からすると、自ら番組内での存在をフェイドアウトさせていったイメージがある。
『ボキャブラ天国』に出演していた芸人たちは、こぞってフォークダンスDE成子坂の才能を絶賛している。コンビそれぞれが亡くなった当時、テレビやラジオでその多くがコメントを残している。
村田が亡くなった際に、爆笑問題の太田光は「あいつらは天才過ぎた。天才過ぎたゆえに売れなかった」と明かし、くりぃむしちゅー・上田晋也は「僕ら世代のトップランナーだった。センセーショナルだった」と回想。“ピコ太郎”でブレークした元底ぬけAIR-LINEの古坂大魔王は村田について、「この人といたら、なんでもボケられる。唯一無二」と述懐。また、桶田が亡くなってから、元U-turn・土田晃之は「センスがやっぱすごかった」と口にしている。
ダウンタウン・松本人志もフォークダンスDE成子坂の実力を認めていた1人だと思う。『ボキャブラ天国』が流行した1990年代、大阪から東京に進出して間もない松本はこれ以上なくとがっていた。
テレビ番組のトークコーナーで、若手芸人について聞かれても「そんなん知らん」と鼻にも引っかけない態度をとっていた。ましてや、松本自身の口から若手の名前が出ることなど考えられない。そんな時期に、唯一名前を口にしたのがフォークダンスDE成子坂だった。
全文はソースをご覧ください
引用元: ・【伝説のコント師】悲劇のコンビ、フォークダンスDE成子坂 運命を狂わせた「ボキャ天」 [muffin★]
今なら売れてたと思う
20年早かった
当時芸人を売る気は全く無かったホリプロじゃあね…
バナナマン「」
ダブルブッキング「」
スピードワゴン「」
しかし短命コンビだったね
どっか可愛げがないと
なんで土田って生き残ったんだろ?
いうて生き残ってるやろか
可愛げがあるからね
なんか卑怯だしムカついてたわ
飛び抜けた存在でもなかったよね
視聴者目線では、よくて三番手くらいだったな
なんで芸人内の評価がこんなに高いのかまったくわからんね
橋本環奈がいたアイドルグループと同じくらいセンスがない
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません